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江戸時代の武士は定員があったんでしょうか?

こんにちは
江戸時代の武士についてですが、
完全な世襲だったんでしょうか?だとすると、
1)戦もない時代、どのように数が増えないように、したんでしょうか?
2)武家の男子に生まれても、武士にならない人もいたんでしょうか?
そういう人は何になったんでしょうか?
また、いくら世襲といっても、体力など、
3)健常者でも適正検査はなかったんでしょうか?
あったとすると、落ちた人は、どうやって暮らしたんでしょうか?

投稿日時 - 2006-11-20 09:19:24

QNo.2550624

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

>江戸時代の武士は定員があったんでしょうか?
 そのようなものはありました。大名や旗本には「軍役の義務」というものがあり、何石につき何人の兵員を保有しなければならないという、幕府からのお達しがありました。
 まあ定員というより最低要員です。大名や旗本はこの規定を下回ることは、原則的にできませんでした。
 それじゃあ、アッパーリミットはあったのかというと、なかったみたいですね。家来を多く持つと経営が苦しくなるばかりです。無闇にふやせません。ですから、大名は最低要員を満たすため、殿様から扶持を貰わないでも自活できる「郷士」を活用して人数合わせのやりくりをしていました。
http://www.0105.jp/~mizuki/gunekikitei.html
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m198.html

1)戦もない時代、どのように数が増えないように、したんでしょうか?
 質問者さんの仰せの通り、ほぼ完全な世襲です。大名は家来の侍に子供が何人いようと、そんなことは知ったことではありません。500石取りの家来に男の子供が二人いたとしても、長男に500石を継がせ、二男に新たに300石をやって分家させるなどという甘いことをしていたら、その大名家は破産します。
 もし二男が非常に優秀であった場合は、分家を認める場合がありますが、その場合は本家の禄高を原則的に減らすということになります。そうすると本家の禄高が減り「家の格」が下がることになりますので、侍は余程のことがない限り分家はしません。
 ですから男の子が沢山生まれた侍の家は、次男以下の始末に苦慮したわけです。その方法として(1)男子のいない侍の家への養子、(2)郷士への養子、(3)荒地に入植させ郷士にする、(4)その他、などが上げられます。
 それでも残った場合は、部屋住みで「厄介叔父」ということになります。跡取りの長男の叔父ですから、こういう格好の悪い立場になります。

2)武家の男子に生まれても、武士にならない人もいたんでしょうか?
 前項の(4)その他ですが、僧侶になる例が結構多かったようです。あとは神主さんへの養子もあれば医師になった例もあります。
 武芸が不得意で学問好きの場合は僧侶が適職でしょうな。

3)健常者でも適正検査はなかったんでしょうか?
 適性検査はありません。質問者さんご心配のように、武士は本来軍人なんですね。たとえば重度の身体障害があった場合は、武士は無理ですので部屋住みとならざるを得ません。
 このような場合を除いては長男は大概家を継げたようです。

 大名家も旗本家も収入は何石と決まっていますので、家来を無闇に増やすわけにはいきません。内実は殿様も家来も、やりくりに苦労していたようです。

投稿日時 - 2006-11-20 17:37:54

お礼

荒地に入植なんていうのもあったんですか。
武家も色々大変だったんですね。ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:13:27

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回答(7)

ANo.6

1) 一つの家を継げるのは一人しかいません。次男以下は養子に出るしかありません。ただ、
(A)生活水準が高い武士と言えども幼児死亡率が高い
(B)医学が未発達なので大人になっても意外と簡単に死ぬリスクあり
(C)不妊治療が存在せず、妾を持つほど裕福でもないと言うことで、実子がいない家は結構あった
ということで、養子の需要は想像以上に大きかったようです。私の祖父は明治時代の元武家の次男で同じ藩の元武家に養子に出ていましたが、自家を継いでいた兄が若くして死んだので自家に戻って跡継ぎとなり、今日に至っています。養子先から戻る際に「この家の祭祀も絶やさない」と約束したので、苗字の違う養子先の墓も同じ墓域に建っています。
家を継ぐ養子は親戚から迎えるのが普通だったようです。これは今も同じです。

2) 武士の子として生まれ、僧侶、儒者、医者など、武士に準じる知的職業に就く者はいたようです。また、武士の家から商家や農家(いずれも裕福な家)に養子に行くこともあったと思います。江戸時代、武士と(裕福な)平民は対等に交際していたようです。

3) 武士の長男であっても、武士としての能力(学問と武芸)に欠ける者は家督を継げず、次男以下が代わりになるか、親戚などから養子を迎えて対処したようです。能力不足で家を継げない長男は、他家の養子にもなれませんから一生飼い殺しとなります。武田信玄の次男は、盲目のため僧侶になりましたが、ちゃんと子供は作っており、その血統が現在まで伝わっています。家督を継いだ三男の武田勝頼の系統は滅亡しました。
海野信親 (竜芳)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E9%87%8E%E4%BF%A1%E8%A6%AA

投稿日時 - 2006-11-20 17:06:13

お礼

養子の需要は結構あったんですか。それに商人や農家の養子にもなれたんですね。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:11:35

ANo.5

武士という身分は原則として世襲です。しかし、身分制度が磐石でなかった江戸の初期と、これが揺らいできた江戸末期には、他の身分から武士になることも可能でした。二宮尊徳は農民の生まれでしたが、藩に取り立てられて武士になっています。
逆に、武士の身分を離れることも不可能ではありませんでしたが、現実問題としては非常にまれです。当時のような固定的な社会では、武士の身分を離れることはできても、収入を得て生活していくことは困難です。武士の身分を捨てても捨てなくても、貧乏は貧乏、貧乏浪人が貧乏町人になるだけです。

武士(武家)は生まれながらの身分なので、知的・身体的な問題があっても武士は武士です。適性検査などありません。しかし、武士であっても幕府や藩の役職(当然、定員があります)につけるとは限りません。武家の次・三男、知的・身体的な問題を抱えたものなどは、一生を無役の飼い殺しで終わる恐れが大です。役がなければ無収入、時代劇に出てくる貧乏浪人のように落ちぶれる者も珍しくなかったはずです。

投稿日時 - 2006-11-20 13:56:12

お礼

武士の家の子もいろいろ大変だったんですね。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:08:55

ANo.4

江戸時代武家はほぼ完全な世襲制でした。
家督は男子の長子相続で、それ以外の男子はスペアでした。
この為長子が健在であれば次男以下の男子は一生予備の生活を送るか、後継者のない他家に養子となるほかはありませんでした。

新たに家をたてる幸運に恵まれた場合は定員が増えますが、一方取りつぶしや絶家という不運で家が絶えることもあり、定員は結果として保たれたようです。

しかし新たな職種が設けられると、これに従事する武士(既に官僚化していた)は俸給を得たわけですから新しい定員となります。
従って武士の定員は多少は流動的な点もあったわけです。

武家の長子はその家の職務に必要な武芸、教養を学習しなければ地位の保持も出世もありませんから、これに励みました。
先天的にその素質がなければ、場合によって廃嫡されスペアに家督を継げさすことも起こりました。 病身につき隠居とかお家騒動の原因になる事もありました。

武家の男子で僧侶や学者になる人は体力的に地震がなかったのではないでしょうか。
適性試験というものではありませんが武芸試合、学問の素養試験のようなものは行われたようで、能力テストとして機能したようですが、落第はなかったようです。

投稿日時 - 2006-11-20 12:49:08

お礼

なるほど。いろいろですね。ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:07:21

ANo.3

1 武家の家に男の子が複数生まれたら、長男は、跡取として、次男、三男以降は、スペアとして、飼い殺しにしておく。
お嫁さんも持てません。
というのが、原則かと、思います。
お寺に預けて、長男に万一があったとき、還俗させる。も、手だと思います。
遠山の金さんは、長男ではなかったので、若い頃、やけになって、グレて、刺青(女の生首?)なんかをいれてました。
スペア組で、名を遂げた人は、けっこういっぱいいます。
天然痘などの流行病で、案外淘汰は、簡単に起きたみたいです。
赤穂浪士の赤穂藩のように、お取りつぶしもあれば、国替えもあり、全体数は、微調整できたと思います。
浪人もそうですが、百姓や町人には、プライドが邪魔で、なれないでしょうから、親の援助を得ながらアルバイトで、身を立てるになるかと思います。
長男が健常者でない場合は、「お役に立てない」と、跡取であることを武家の側から、遠慮する。
と、いうことだと思います。

投稿日時 - 2006-11-20 11:03:01

お礼

そうですか、病気でよく人が亡くなったとはいえ、
次男以下は大変な立場だったんですね。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:05:26

ANo.2

武士制度はかなり複雑で下記がとても参考になります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB

投稿日時 - 2006-11-20 09:27:24

お礼

こんな複雑なものだったんですね。全然知りませんでした。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:03:29

ANo.1

 明確な規定はなかったのですが、原則として、役職は相続によって受継がれ、当事者が死去するか、隠居するかして空きができると、それは長子によって受継がれることになっていましたから、結果的に定員が維持されたということになったと思われます。
 江戸時代を通じて多くの藩の財政再建の試みがありましたが、給料削減は行なわれましたが、定員削減ということは企てられなかったようです。

投稿日時 - 2006-11-20 09:24:52

お礼

長男が継いだので、数は変わらなかったという感じなんですね。
ありがとうございます。

投稿日時 - 2006-11-20 18:01:53

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